水乃くらげ - 【7月限定】夏コミ新作ラミィちゃんおっぱいマウスパッド(表情&TKB12枚+パイズリ3枚差分・合計15枚)
infoAbout This Title
ラミィちゃんおっぱいマウスパッド
個人的に使う用にパイズリ差分を描きました。
(いつもぶっかけ報告もありがとうございます)
パイズリ特化のグッズが欲しすぎる…
色校も先日届いて若干色味とおっぱい比率を変更して再入稿。
チェック中に他のデータ入稿作業。
電話&確認。
再入稿。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
※7月分のパスワードは現時点で支援プランに加入している方におたより機能にて共有しております。
今月以前の投稿はプラン説明と月初めの【ご支援開始しましたら必読】の投稿にもあります通り非公開になっており、再公開時期は未定です。
過去の支援の有無に関わらずご指定の月の再アップのリクエストも転載防止の為、受け付けておりません。
度重なる無断転載を受け、正当にご支援してくださっている方を守る為の苦肉の策です。何卒ご理解いただければ幸いです。
本投稿より後にご支援を開始してくださった方で次の更新のおたより配信まで待たずに一刻も早く閲覧したい方はお手数ですがご自身のFANBOXで使用しているユーザー名か登録カードのスクリーンショット等の画像を
こちらのコメントではなく、
Pixivダイレクトメッセージにて教えていただけましたら幸いです。
支援者証明カードのスクリーンショットがありますとスムーズです。
支援開始時期と照らし合わせて現在公開中の最新データのパスワードを共有させていただきます!
更新は毎月25日までとし、
月末になりましたらあらためて全支援者にパスワードを共有いたします!
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
◆という感じで夏コミグッズ全て入稿完了しました!
うぉぉぉ…長かった…
そして!今から新刊入稿です…!
一旦、一旦ね?
ビールじゃああああああい!!!!!
新刊入稿〆切は8月頭なので今から修羅場です。
今から表紙です。
間に合えぇぇぇぇーーーーーーー!
という感じで8月頭も更新がちょっと難しいかもしれません…!
◆そして新刊作業がまだ残っているというのに…!
ねねちライブも行ってきます…!
耳が心配すぎるので延期する可能性も視野に入れておきます。
◆最近買った本
◆日本料理研究家 土井善晴先生
「一汁一菜でよいという提案」「一汁一菜でよいと至るまで」
絵に置き換えると世に公開されているプロ絵と趣味絵を一緒に語るな。疲れる。
絵というものもともとは楽しかったはずだ。楽になろう。
という東洋哲学らしい着地の仕方。
◆絶望の哲学者ショーペンハウアー「求めない練習」
ニーチェが批判した虚無主義・ニヒリズムを提唱した師の考えです。
この考えがベースにあると思うとなかなかいい事を言っています。
◆ミハイ・チクセントミハイ「フロー体験と創造性の心理学」
絵を描いている時にもこの精神の没頭状態『フロー』は訪れます。
この体験を言語化し、分解したいと思いました。なかなかに分厚い本なので楽しみ。
コミケ前で忙しすぎてフローの本までまだいけていないのが歯がゆい。
◆教養として学んでおきたいニーチェ
読了。
うおぉ…面白い…この哲学を以て明らかに自分の中に心情の変化が生まれていて、
なんだろう、確信めいたものといいますか心ブレない武器を手にした感覚。
あらゆる世の中の事象に対して割と達観視することができている
自分に気が付きました。
ここで普段から実践している思考法
[ジム・ローンの5人の法則]にニーチェを落としみました
この法則は最も長く時間を過ごしたあなたの周りの5人の平均値があなたになる
という最強ツールで、
考え方は勿論、仕事内容だろうが作業スピードだろうが年収だろうが
自分が決めたその5人に引っ張られるという思考法がありまして
その5人は心の底から尊敬できる偉人、家族、職場の上司や先生、
既に亡くなられた方、誰でもいいです。その人ならこの時どうするだろうかと
思考を巡らせているうちに自分もその5人の平均値が自分になる、
その5人の思考に引っ張られるというやり方があります。
その為には一旦その人の本を読むなり文章を読み取るなり直接話すなり
その人の考え方を取り込んでみること。
そうすると、その人の思考パターンが自分の中に生まれています。
ここに自分の近くにムキムキマッチョのニーチェがいて
ニーチェならこう答えるだろうなみたいな感覚。
割とどうとでも戦う事ができるような感覚。読んでよかった。
ニーチェ…おめえとんでもねえ脳筋だなあ!
オラ、ワクワクしてくっぞ!
ニーチェの本『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で
「諸君に超人を教える、諸君らは超人を克服せねばならない何かだ」というとても有名な台詞があります。
この超人とは何のことを、誰の事を指しているのかは言及されてはいないのですが、これは自身の事を超人と例えたベートーベン、
あるいは超人を題材にしたゲーテ
または人を超越した存在で言うならば
ギリシャ英雄時代のゼウス神と共に戦った人類の味方であり、
ティーターン神のプロメテウスの事を超人と教える。
この超人を超えるために君もパワーアップして超人となれ。と言っている。
ホアァァァァァァァァ?!?!
人類に火を与えたプロメテウス並みの神にならなきゃいけないの?!
人が?!
正確には違います。
これは道理ではなく、筋の話です。
ニーチェ本人の現代解釈ですが
根本が『力には道徳という卑劣な手ではなく、力で対抗せよ』
『隣人思想・利他主義は弱者の正当化』
という思想があり、
現代社会においてこの方マッチョに解釈されて描かれていて面白いです。
現代に落とし込むと
Q.SNSでバズッている神絵師と比べてしまって落ち込んでしまいます…
どうすればいいでしょうか…
A.ニーチェ
「うるせえ筋トレしろ」
「そんな事より筋トレしろ」
「まずは筋トレからだ」
「君は超人に勝つんだろう!!」
「弱者は復讐心というルサンチマンに囚われ、畜群となって君に襲い掛かり、引きずり下ろしてくる。ルサンチマンなんかに負けるな!」
「眼の前の鉄の塊に向き合え」
「鉄の塊を持ち上げる事だけに集中しろ!!」
「自 分 の 成 長 に 夢 中 に な れ ! !」
Q.最近ネット記事にもなっていましたが〇〇さんが炎上していて
自分も思うところがあります。〇〇さんのカウンターはこう言っていて…
A.ニーチェ
「で ぇ じ ょ う ぶ だ」
「そんなん弱者どもが畜群となって群がっているだけのただの奴隷運動だ」
「自分の貴重な時間を他者の為に、無駄な事に割くんじゃない。自分磨きをせよ」
Q.自分よりすごい推し活している人、沢山の人と交流を深めている人と
比べてしまい落ち込んでしまいます。
推し活グッズでもコンプしていたり自分だけの拘りを見せつけられ、
金額面でも格差を見せつけられてしまって推し活疲れを感じています
A.ニーチェ
「で ぇ じ ょ う ぶ だ」
「黙ってたっていずれ人は死ぬんだ。
その無意味な時間、貴重な時間をどう自分に使うか考えたらどうか?」
「ぬいぐるみを沢山並べる事が正義なのか?」
「人よりお金をかけることが正義なのか?」
「賞を貰ったからなんだっていうんだ?」
「人より奇抜なカスタムしたからなんだっていうんだ?」
「そいつは偉いのか?」
「評価されたら満足するのか?自分はどうだ?」
「友達100人できたらそいつは果たして正義なのか?」
「そんなものが素晴らしいとするならばそんなものはただの偽装でしかない」
「超人を倒す為に戦え。戦う事に夢中になれ!」
「おめぇはバーサーカーなんだろう!」
「超人になれ!」
「パワーアップしろ!」
Q.時折、学級会と呼ばれる批判、〇〇について~の論争がたびたび起こっています。
それについてどう思いますか?
A.ニーチェ
「でぇじょうぶだ」
「基本的に弱者の奴隷運動だ」
「新しい事を始めたりすると弱者は道徳を使ってマイナスな意見しか言わねえ」
みたいな思想の方です笑
いや、めっちゃ好きだわこの人。
東洋哲学が「無を受け入れよっ♪」
「自分なんてないよっ♪ない方が楽になれるよ♪楽になろっ♪」
という考えに対して、
西洋哲学、
特段この人は「生きる事は虚無。生きる事は戦いだ。戦え。
逃避するな。向き合え。そして無垢になって人生を遊べ」
と、基本的に頭抱えながら言う。
分かりやすくて好き。
自分レベルの超単純人間でもわかる。
人気な理由がわかる。
拡大解釈ではありますが、いや、合っていると思います笑
この人、とにかく道徳を嫌います。
(当時、キリスト教が道徳を盾に民衆を政治誘導・利用していた為)
言葉が強すぎるので思想強めの妄想癖でもあるのかと思いそうですが、
伝えたい言葉の真意はとても理解できます。
超人、この場合何かを残せている人の事を道徳やありとあらゆる物を利用し、引きずり下ろそうすのは
弱者の考えであるという根底があるからこそ
このような強めの言い方になっているのだなと。
ん?あれ?既視感がある…これ2世紀先の事を言っている、つまり現代のSNSか…?
でもこの人晩年、発狂して精神病棟に幽閉されて肺炎で亡くなっています。
ローマ広場で鞭打たれている馬を見て可哀想だと泣きついて
私はインドのブッダの生まれ変わりかもしれんし、キリストの生まれ変わりだと
知人達に手紙を書いては出しまくって心配されるくらいに精神がおかしくなってしまいました。
・仮面を好む
1800年から2世紀後の現代…
多様性を求めておきながら自分に関しては自分を受け入れろと多様性のない物を求めているダブスタの矛盾時代が来ると言っている。
・"ニーチェ解釈の"ニヒリズム 虚無主義
人生、この世の物は全て虚無 意味はない。というのがニヒリズム。
東洋哲学と似ている考えだが捉え方が違う。
東洋は無我になる事で空-縁起と繋がれる。
それは最上の快楽→曼荼羅のイメージ。
西洋は虚無。神は人間が殺してしまった。
キリストという絶対的な権力がなくなってからどう個として生きるかの考え。
絶対的で統一的な目標は無くなってしまったし、生きている意味もない。そもそもそんなものは存在しない。
位に捉え方が違う。
これを絵に置き換えると
描く意味?そんなものはない。そもそも意味なんてないのだから考える事自身が無意味。というのが虚無主義。
だけれど、この先があります。
・絵画のドイツロマン主義とついに繋がって感動。
1800年代、当時絵画の世界ではロマン主義というジャンルが流行っておりました。
自分の大好きなドイツの画家キャスパー・ダーヴィト・フリードリヒがこれです。
ニーチェが師とした同じくドイツの絶望の哲学者ショーペンハウアーいわく、
「生きる苦しみは芸術によって救済される」
だけれど、後にニーチェはそれはただのロマン主義だと後に猛批判する。
夢見がちなロマンチシズムはただの現実逃避。
確かにドイツ・ロマン主義を代表するキャスパー含め、様々な絵師達が一貫して
描いていたのは死生観をテーマにしたもの。
これぞニヒリズム。圧倒的絶望。ネガティヴ。
海外絵画を取り扱っている本屋でさえ、ほとんどが印象派の本なのに
ロマン主義は数十冊のみ。それくらいアングラな世界観です。
自分はもともとニヒリズムが好きなのかもしれない。
おっぱいばっかり描いてるのにね!!
この作品が一番好き
『月を見つめる二人の男』
生きるとは何なのか引き込まれる。山登りしている時の自問する時間、
登頂した時の達成感を思い出します。
しかしこれをニーチェはただの現実逃避のジャンルの一つでしかないと一蹴します。
枯れ木は死
歩きにくいゴツゴツとした岩は人生
月は人類の希望
この人はとにかく後ろ姿。
キリストという絶対的権力無き世界
常に道筋を照らしてくれた存在、希望を失ったかのように人はただただ立ち尽くすだけ。
それでも大自然は人々に容赦なく牙を向けてくる。
しかし我々はその世界の美しさに魅了され、新たな希望を見つけて歩き出していかねばならない。
ああ、だからこんな
虚無主義、ニヒリズムという超後ろ向きなジャンルを描かれていたのか。
そもそも世の中全体がそういう風潮だった。
しかし、絵画と密接な関係があるとは思いませんでした。
本を読んだ瞬間全てが繋がりました。
なるほど、この絵画が好きならこの哲学好きなわけだ。
なるほどね!ポンときました。
ドイツロマン派
自分はこの世界が大好き。
な ん で す が !
ニーチェはこんなんただの現実逃避のジャンルだと一蹴しています。
ロマンチシズムじゃあ生きてけねえよと。現実見ろよと。
地に足付けて生きろと。
え、ちょっと待って完全に悪口だこれ!!笑
絵は娯楽じゃだめですか!
絵は人を幸せにしてくれるよ?!
神なき世界で人は強大な自然とどう向き合うのか
思わず息を飲んでしまいます。
神は死んだ。
見てください。
もういかにも神は死んだといわんばかりの構図!
もう大好き。
当時社会全体がニヒリズムをテーマに表現されていたのでこのように
分かりやすい作品ばかりです。死にました!さあ!どうする?!のような。
まるで映画を観ているよう。
うわあ…美しい…絶望しか感じねえ…
ええ…?でも人生もこんな絵画のように
生きていかなきゃなみたいな感想。
この絵で明るい気持ちになんて決してなれない。
絶望の哲学者ショーペンハウアーは
人生の苦しみは酒と芸術で忘我できる。
だから逃避しよう!
と唱えますが、
しかし、ニーチェはかつての師に対し、そんなんただのロマン主義だ。
ニヒリズムを受け止めろ、芸術はニヒリズムじゃない。
酒や芸術では生きる苦しみから解放なんかしてやくれないと猛批判します。
つまりは逃避すんなと。
空気感が伝わってくる。
お先真っ暗のように、霧がかって先が見えない。
まるで人生のようで、すごい共感性が高いです。
一つの哲学の映画を観ているようだ。
美しい。けれどこの先には何も見えない絶望感も感じる。
だから好き。
絵を描いている時の心情表現もこんな感じ。
だから好き。
絵を描く事とはこのように内省みたいなものでもある。
「自分は何が好きなんだろう?」
この作品なんてもう最高。
足を悪くした一人の男が
画面中央のイエス様を見つけて岩にもたれかかりながら手を合わせて
祈りを捧げています。
既にもう息絶えているのでしょうか。
画面手前から松葉杖が落ちている事から
次々と急いで放り投げたのがよく分かる。
どれだけ救われただろうか。
あるいは徐々に徐々に松葉杖を落としていって
最後にもたれかかって既に力尽きたか。
足を悪くした絶望のあまり、
この人は死ぬつもりで雪山に入っていったのではないか。
そしてそこに現れたイエス様を見て「おおお…」と松葉杖を投げ捨ててすがるように流れ込んできたのではないか。
絶望と苦しみからの解放。
これぞニヒリズム。虚無主義。
いや、それ通り越してペシミズムという悲観主義?
このパワーに、この世界観に引き込まれる。
この人何があったんだろう?結局は人生ってこの人のように最後は小さな希望を見つける事こそが生きる事なのかもしれない。と教科書のような解釈ができる。
ちなみに前に母にこのジャンルを見せたところ
「あんた病んでんのかい」
と言われました。
はあああああ〜〜〜………
全然違う。
出た!意見否定=人格否定じゃないよー!
これがドイツロマン主義の絵画の最大の魅力です。
絵画の1800年代のドイツロマン主義を語る上で
同じ時代を生きていたドイツ哲学者のニーチェのニヒリズムは外せない。
学生時代、上野美術館でやっていたドイツ、ドレスデン展に行った時のショックが忘れられません。
「あ!!なんか時代背景とかよくわからんけど、この画好き!!!!
理由はなんか写実的で写真かと思うくらい綺麗だから!!」
初めて好きになった絵画のジャンルがニーチェの哲学と
リンクして感動しています。
でもかつての師ショーペンハウアーに対して手のひらクルーで猛批判してます笑
これはずっと自分の中に一つこのジャンルが好きと言う芯があるからこそ
歴史背景がスッと入ってきました。
キャスパーが活動していたのは1800年代。
当時の絵描き達は虚無主義・ニヒリズムをテーマに描いていました。
当時もそういう空気感だったのでしょう。
絵画展は今でいうところの新聞や映画のような役割をしていましたから納得です。
しかし、同時期、哲学者として活動していたニーチェは
これはニヒリズムではないと批判。
神は死んだ。
つまり、絶対的な権力はなくなった。超人はいなくなった。
ではどう個として生きるのか。
それを紐解いていく内容です。
そう思うと上で挙げた雪山で祈る男性も
キリストという絶対的権力なき現代になった瞬間、全く意味を無くしてしまったその
眼前の十字架、言ってしまえばただの偶像。
足も凍傷で動かないかもしれない。
早く食事を取らないと死んでしまうかもしれない。
にもかかわらず眼の前のただの木の像に向かって手を合わせて祈る行為に一体人生において何の意味があるのだろうかとも皮肉に受け取って観る事もでき、
地に足つけて生きろ。そう言われているようにも見え、
このジャンルの奥深さを思い知らされ、
とても前向きなメッセージを受け取りました。
・ルサンチマン。
復讐心・恨み・怨恨・憤り・劣等・嫉妬。
人を超える超人に対して力には道徳ではなく力で挑めとニーチェは説く。
弱者達は畜群となって道徳を作り出し、ルサンチマンで
超人を引きずりおろそうとするのはただの偽装である。
言葉強笑
いやしかし現代のSNSの縮図のような気がする…
ニーチェが最も嫌う構図が全て詰まっているのがSNSな気がする…。
炎上だの謝罪だの叩くだのなんだの。
まだ生きていた頃から2世紀後は弱者の世界と言っていて、
超人はギリシャ時代にいて、ニーチェの時代には既に超人はいないという解釈。
自分で人生の目的を持って新たな価値を見出し、
力強く生きていけと説いている。
・パースペクティブ主義
大前提として今まで信じてきた物が根底から覆される。
観点や立場によって物事の理解が可能になり、道徳的に判断ができる。
・ニーチェの有名な「神は死んだ」は
ニヒリズムの言い換え
(別にニーチェがオリジナルではない。ツァラトゥストラの老人の台詞が
あまりにもアイコニックな意味合いが強い為、そっちが有名になっちゃった。)
・絶対的だと思うような考え方や生き方を正当化できるようなものは何もない。
・強すぎる。
・何が許されて何が許されないか、それを合理的に説明する根拠は何もない。
・怖過ぎる。
・烏合の衆、畜群本能 多くの人が集まってみんなで同じ事を信じているのが真理ならば真理というのはまさに多くの人に信じられた嘘である。
そんなものは真理とは言わない。
・待って言葉強すぎん?
けど、めっちゃ重要な事言ってる。
・何のために生きているのか→そんなものは何もない。これがニヒリズムの発想
ロマン主義の画から感じるのはこの力か。
・え、この世に生を授かった時点で不幸って言っているんですよね
・え、じゃあ何で君生きてんの?(悲観主義・ペシミズムのパラドックス)
・人生とはまさに苦しみであり、生きることそのものに何らかの意味を求める事はできない。(悲観主義・ショーペンハウアー)
・ディオニュソス的思考。ディオニュソスはギリシャ神話のお酒と芸術の神
生きる苦しみを忘却させるもの、
それは造形芸術・視覚芸術と音楽芸術を対比させた。
お酒や芸術で忘我によって生きる苦しみから救済される。
・おおおおなんか繋がってきた!?
・しかし「悲劇の誕生」書き上げて10年後、
ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」を書き上げた時には
それらを否定している。
・なんやねんな。
・人々を巻き込んで自身の生きる苦しみを忘却させる形で音楽を利用すんじゃねえと
・ショーペンハウアーの発想に影響を受けながら最終的に強烈に批判している。
・え、待って反転アンチ?
・そもそもニーチェには弟子は師を超える為に最終的に師を批判しなければならないという思想があり、それがこの言葉に詰まっている。
・永遠回帰(永劫回帰) 生きるという事は同じ事の繰り返しであり、退屈である。
京都の哲学の道で有名な西田幾多郎と似たこと言ってる。
全体的に俯瞰的に観て何のためにこんなことをしているのかと一瞬でも考えた時、果たしてどのように答えるのか?
・ショーペンハウアーは逃避戦略。芸術で忘我しよう。
・ニーチェは繰り返すのみ。ただ、それは退屈だと説く。
・生きる意味?ない。え、じゃあなんで生きてるの?ニーチェは繰り返すしかない。
人生は退屈だ。それだけ。
これがニーチェの永遠回帰であり、ニヒリズム。
・生きる意味なんてないがベースにあるのだから
「じゃあなぜ生きているのか」というペシミズムのパラドックスに陥るので
生きる意味とはと考えている時点で自己矛盾が生じている。
東洋哲学のインドの龍樹もそんなもん意味を考えている時点で無意味。
時間の無駄と言ってきそう。
だから人生とは退屈と結び付けて俺は芸術で忘我なんてしねえ。
ただ地に足つけて生きるのみとニーチェは言っている。
・「事実は存在しない。全ては解釈である。」
・パースペクティブ主義 絵画のパースと同義語。
一人一人の立場、ポジションによって違うということを主張。立場が違うそれぞれの人がそれぞれ自分の立場に応じて対象の中に放り込む
という考え方。当然ものの見方もそれぞれの立場の違いによって変わってくる。
そこで初めて価値を見出す。
・自分に都合のいいように切り取って喋るポジショントークも似てるかも。
・判断というのはその人の基本的な趣味、いわゆる主観を対象のうちに投げ込んでしまう。主観主義にも言い換えられる。
・それぞれの人にそれぞれのパースペクティブがある。
・全ての人が正しいと認めるものを消してしまうという意味でニヒリズム。
・真理なんてない。
・ルサンチマンはキルケゴールがオリジナル。
・道徳の根源はルサンチマン。(復讐心)
?それは言い過ぎでは?!?!
・利他主義的
・そもそも生物学の基本的な関係性は力と力
(セルと戦って悟飯が覚醒した時の影山さんの挿入歌のタイトル
~魂VS魂~ということか)
・力が強い人は傲慢で、他人の事を考えず、自分本位である。 ここ。
・人の為に動く利他主義(他人に対して謙虚、困った人を見たら我が身も顧みずに手助けをする)は美徳に聞こえるがそんなものは弱者による
奴隷道徳と厳しく非難する。
・え、だからさ、言葉強
・もともとニーチェは現代は超人を引きずり下ろす為に(ルサンチマン)弱者が集まって道徳を作り上げた。それが民主主義。
民主主義で選ばれた国を統べる統治者だって弱者と説いている。
だけど、事の本質は当時、民衆を政治利用していた絶対的な権力者である教会組織を批判したかった。
・いやしかし最近とある絵描きに「誰とは言わないけど」のていで名指しこそされなかったけれど、明らか自分の事批判しているだろうなの件があったな…
それくらいに活躍できているという証左ではあるのだけれど、
あれこそニーチェの言葉を借りるならパースペクティブという自分の主観主義で
超ポジショントークでルサンチマンによって道徳を借りて引きずり下ろそうという弱者の奴隷運動という事なのかと納得してしまった。(言葉強)
SNSで戦う現代絵描きこそニーチェの哲学書読んだ方がいいかもしれない。
強靭な心が手に入る。
絵描きなら道徳と感情を利用して影で言葉を使って攻撃して
隙あらば引きずりおろしてやろうではなく、
力(絵)で対抗してこい。
筋が通らねえ。
小心者の毒蛇め!てめぇらはデブリの巣穴に隠れなきゃ戦えねえのかよ!
(ガンダムサンダーボルト/イオ・フレミング)
・力のない人達を自己正当化するのがルサンチマン。
力のない人と直接対決しても絶対に勝てないので自分達が弱者であることを正当化して、自分達はいい人なのだという風に意味を変える。
遺作の『権力への意志』は妹が都合のいいように改竄して出版した為、タイトルの権力というところと、弱者と強者の部分を都合よく曲解されて、
ナチスに政治利用されてしまった。
そもそもニーチェは極端なナショナリズムに反対していた事もあり、今もニヒリズムと強者と弱者の解釈についてはニーチェ=ナチズムと誤解されている。
・P136隣人思想
・キリスト教は貧しい人こそさまざまな人間性を備えている、助け合うのは素晴らしいですよと説くがそれら全ては弱者の正当性と言っている。
・言葉強
・ニーチェにとって弱者とは
・権力を持った人間は強い者とは言わない。あくまで弱者が支配権を握っているので
その権力者は弱者によって選ばれた弱者である。
支配権を握ったものが強者になるわけではない。弱者は集まって道徳を作り上げて強者を引きずり落す事しかしないからだと言っている。
・現代は弱者の世界
・では強者とは?
おそらくギリシャ神話のプロメテウスのような存在を想定していた。
ティーターン神族でありながらゼウスに味方になるもゼウスと対立。
人類の味方になって火を与えた神。
・ええ?!こんなケフカ最終形態みたいな神に対して力で対抗せよって言ってるの?!まあ確かにケフカはレベル上げして力で倒さないとクリアできんけど…。
・ゲーテ、自身の事を超人と言ったベートーベンもこれに含まれている。
「じゃあ力を持たないものは、その組織に、システムに入れない人はどうするの!?それは違うってどうやって言えばいいのよ!」と脳内の紅月カレンが言っている…。
でもニーチェならそのカウンターとして
「力無き者は筋トレして力をつけよ。
弱者ほどよく吠える」って言ってくると思う…笑
いや、でもベートーベンみたいな人間離れした人ならざる人も「超人」に含まれるというのであれば、この人間に勝つ為には道徳で引きずりおろすのではなく、
力(この場合、同じ土俵の音楽)で対抗せよというのは
筋が通っているので分かる。
脳筋だけに。
道徳を借りて言葉で引きずりおろそうとしてきてんな…
と思ったら相手の土俵に自分も降りて言い返すのではなく、
力で対抗してこい。そしたら話を聞いてやる。
でいいと思う。
ニーチェ、マッチョだ。
・ギリシャ英雄時代の事を強者の世界と言っており、キリスト教が成立した後はほとんどが弱者になっており、弱者たちが自分を正当化することによって支配権を握ってしまったと考えている。
・超人という概念も別にニーチェオリジナルではない。
・基本的にこの人パロディ大好き人間
・ニーチェにとって自分をパワーアップさせるという事が重要と考えていた。
だからマッチョに描かれてるのかこの人笑
超サイヤ人とかトランザムみたいな状態を目指すか…
ゴジラキングオブモンスターズの限界核融合ゴジラみたいな状態。
・権力への意志の極限モデルが超人。
・生きる事は同じ事の繰り返しで退屈である事を肯定する、それが超人。
・一つは権力への意志を最大化した超人。
プロメテウス=キリスト教の権化みたいな。
・もう一つは永遠回帰を耐えられるのが超人。
・ほえぇ????これに対して力で対抗するの??????
・生きる事を否定するのは悲観主義であるショーペンハウアーの発想であり、
これをニーチェは
「生きるのは苦痛であるというのならじゃあなんで貴様は今生きてんねん」
「じゃあ◯ねばいいんじゃないですか?」
「貴様は嘘をついている」と嫌っていた。
悲観主義・ペシミズムは矛盾している。おかしい。
・人生はつまらない、生きている意味がないというのは弱者の考えであり
そもそも人生に意味を求める事自体が間違っているというのがニーチェの発想
・ここブッダの思想に似ている。
・ただただ苦しいだけの永遠回帰を生きる為に強者に打ち勝てと言う。
東洋は自分なんかがいるから苦しくなる。無我となり、空となり、縁起となり楽になろう。という考え方。
西洋、特段ニーチェはもともと生きるのは苦しいのだからプロメテウスやベートーベンのような人ならざる人という超人を超える為に己を磨けと言っている。
諸君を道徳だとか世の理だとか耳障りのいい他者の言葉を借りて引きずり下ろそうとする連中はルサンチマンに囚われた弱者だ。打ち勝て。筋トレしろ。と言っている。
ああ…どちらかが合っているとは言わないけどディベートした結果、こっちの方がやっぱり好きかもしれない…。
まっすぐで分かりやすくて好きぃ…自分は力で戦いたい。
でも日本に生まれたからには日本の哲学も知りたい!
となっております。
で。
永遠回帰の先はどうあればいいのか。
人生は苦しく、退屈であるならば。
芸術は逃避ということであるならば。
最終的に人はどうあればいいのか。
それは精神の三つの変化の最終段階を目指すべきと言っている。
・精神の三つの変化
ツァラトゥストラはかく語りき。でこう説いている。
・人は精神の変化でこのような順番で変化していく。
駱駝(ラクダ・服従)→獅子(ライオン・闘争・自由)→子供(純粋に生きる)の順番で変化していくと言っている。
①駱駝
重荷を背負い、勉学に励み、従順に耐え忍ぶ段階。
②獅子
社会の常識や権威に対して拒否を突きつけ、自分で破壊して自由を勝ち取る。
③子供
過去のしがらみに縛られることなくゼロから創造する。全てを新たに始める。遊ぶ。
まさかの子供が精神の最終段階。
ニーチェは最終段階として子供を目指せという。
…あれ?
これ、日本武道の守・破・離という考えに繋がったぞ!?
西洋でも同じ事言うんや!!
①守
師の教えを徹底的に守る。
②破
基本の教えからこれまでの型を応用させ、自分のスタイルを確立させる。
③離
そして師から離れ、既存の枠組みから外れる。新たな境地を開拓する段階。
武道以外でも、学問に置いても、絵だろうが転職だろうがなんだろうが、
生きる事全てに当てはめられると思います。
・「自分自身の為に遊ぶ」 その概念は人それぞれ。
・ニヒリズムを受け入れながら生きる事を肯定するのであればどのように遊ぶかが重要。
・自分も考えた瞬間、即答する事ができた。
それは生きる事とは、人生を遊ぶ事とは
自分にとってまさしく絵を描く事だ!!
・絵を仕事にしたサラリーマン時代、厳しいフィードバックの毎日で自己否定され、絵が嫌いになってしばらくPCをつけなかったあの数年は今思うと生きていなかった。
死んでないだけ。
絵を描くことは自分にとって生命活動。
好きが嫌いになる。それは即ち個の損失だった。
ただただ苦しかった。絶望しかない。
・ニーチェはパロディが好きなのでひたすらパロディを書いて遊んでいた。
師であるショーペンハウアーに牙を向けたのは②の獅子の段階と思われる。
「いや、師よ!それはおかしい!!」と噛み付いた。
・ショーペンハウアーは人生は苦しみであり逃避しようと提案する。
・ニーチェは人生は同じことの繰り返しであり、人生は退屈なもの。
だから、最終的に人は学ぶという受け身の段階から自立して子供に戻って人生を遊ぼう。と提案する。
すげえ………なんだこの人…。
ニヒリズムってすごい悲観主義、ペシミズムみたいな
そもそも生まれ落ちた時点で不幸で生きる意味なんてないので最終的には死ぬしかないみたいな文字通りの悲観主義、解釈かと思っていたらこの人は全然違う解釈してる。
・自分にとって
「絵を描く事とは何なのか?」
「何のために描くのか?誰のために?」
「この生きている間に何を描いて残すのか?」
という問いが生まれていましたので
即答することが出来ました。
自分自身の為に人生を生きろ?
それは自分の為に絵を描くぞ!!
そしてそれは周り回って「自他」の為になると確信しております。
日本哲学者の西田喜太郎も善の研究という本の中に
「自己を深めた先に自他がある」と仰っています。
これがまさに絵も同じだと思います。
ピンと来ていない人にとってみれば
ニーチェはただの権力志向を持った妄想癖のある人くらいにしか思えないかもしれません、が、
真理だ…。
世の中には二元論・デュアリズムが存在する。
①ディオニソス的思考 酒と芸術の神
②アポロン的思考 規律を守る神
この二元論は芸術の分野でも使われる。
ニーチェの言葉
・「いつまでもただ弟子でいるのは師に報いる道ではない。
なぜ君達は私の花冠を毟りとらないのか」
この言葉に力には力の本当の意味がある気がします。
わかった。
勉強させていただきます!という思考ではいつまで経っても最前線には立てない。
自分も殻を破って師に叛逆する。
その場合は言葉という道徳を使って批判ではなく、力(絵)で勝負する。
子供に戻って絵を楽しむ。
それが自分にとってのニヒリズム。虚無主義。
・この人も守・破・離の離をせよと説くか。
・強者を良い、弱者を悪いという考えは貴族道徳
・ああ、シャルル・ジ・ブリタニアね
・その後の弱者を善とし、強者を悪とする時代が来る。これを奴隷道徳と呼ぶ。
・ああ、黒の騎士団ね
・ん、まあ確かにピンと来ない人には
思想強
怖
となるかもしれませんが、哲学はその人の問いに対して一つのアンサーを投げかけ、
そのまま受け入れつつ、守破離の離、そして子供のように
独自解釈し、最終的に俺はそうは思わねえ!あんたの答えはなんだ?!
自分だけの生き方を見つけて独り立ちせよと
説いているのがニーチェの哲学の面白さと人気の秘訣だと思いました!
冒頭で述べた
ジム・ローン5人の法則の中にニーチェがいる感覚がある。
ああ、ニーチェならこう答えるだろうなのような即答できる感覚。
どんどん自分の中に武器が増えていく気がする。
なんか世の中や自分の使命感みたいなものに楔が撃ち込まれた感覚があり、
まだ咀嚼したばかりでまだ駱駝の状態ではありますが
カウンターである東洋哲学を先に吸収した後なので
この似ているようで混ざりようのない西洋と東洋の哲学をバチらせて
自分の中で一つの独自の哲学が生まれようとしている事に気が付きました。
この感覚!これ!このビッグバンの感覚!
これこそ本を読んでよかった!という気持ち。
もっと知りたい!という欲がすごいです。
大人になってから哲学書読んだ方がピンと来ていいな…!
絵を描くこととは内省みたいなものと
捉えている絵描きにとって
この哲学は…
沼だ…!!
そして、先に述べた
絵に当てはめるとこう解釈しました。
絵を描く意味なんてない。苦しいだけ。個があるから苦しくなる。
自分自身という存在がそもそもボトルネックになっている。
自分なんて捨てちまえ。
絵画展に行ってお酒を飲んで夢を語りあっても匿名で何かを言ってもくだを巻いてもそんなのはただのロマン主義であり、逃避である。無意味。無価値。
周りは隙あらば引きずり下ろしてくる。
ではどうするのか。
ただ描くだけ。描いて公開するだけ。
そこに個は存在しない。いらない。
同じことの繰り返しはただただ退屈。
だけれど、その先が違う。
自由になって絵で遊ぶ。繰り返しは退屈なのだから。
だから毎回違うことをして、
色んな商材や先生達が教えてくれた「こうである」の真逆をする。
「俺はそうは思わねえ!」「好きに描かせてもらうぜ!」
それが絵描きにとって、自分にとってのニヒリズム。
絵描きの虚無主義とは自由に描くだけ。
これをやるとどう思われるだろうか、どう評価されるだろうか、バズれるだろうか、何いいね、何RTありがとうございます!
とか考えるだけ無意味。
絵は自由なのだから。
この自由を楽しむ。全ては自分の為に。
自己を深めた先に自他がある。
自分を愛した先にそれは廻り廻って人の為になる。
その為には絵を楽しむ。人生を楽しむ。自分を愛する。
その先には人を楽しませ、人を愛することができる。
こう捉えることができました。
もっと自分の絵を愛そうと思いました。
そうだ。もっと自惚れろ。
自分の為に、自分が欲しいから描く。
自分がヌきたいから描く。それで結構。
それは廻り廻って人の手助けになる。
◆もっと色んな哲学が知りたいなと思ったら
昔の哲学者で京都の哲学の道で有名な西田幾多郎氏、
この方がまさに西洋哲学と東洋哲学の善の両方を学んで
己の哲学を導き出した方でこの方をもっと知りたいな!となりました。
ラミィちゃんおっぱいマウスパッド
個人的に使う用にパイズリ差分を描きました。
(いつもぶっかけ報告もありがとうございます)
パイズリ特化のグッズが欲しすぎる…
色校も先日届いて若干色味とおっぱい比率を変更して再入稿。
チェック中に他のデータ入稿作業。
電話&確認。
再入稿。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
※7月分のパスワードは現時点で支援プランに加入している方におたより機能にて共有しております。
今月以前の投稿はプラン説明と月初めの【ご支援開始しましたら必読】の投稿にもあります通り非公開になっており、再公開時期は未定です。
過去の支援の有無に関わらずご指定の月の再アップのリクエストも転載防止の為、受け付けておりません。
度重なる無断転載を受け、正当にご支援してくださっている方を守る為の苦肉の策です。何卒ご理解いただければ幸いです。
本投稿より後にご支援を開始してくださった方で次の更新のおたより配信まで待たずに一刻も早く閲覧したい方はお手数ですがご自身のFANBOXで使用しているユーザー名か登録カードのスクリーンショット等の画像を
こちらのコメントではなく、
Pixivダイレクトメッセージにて教えていただけましたら幸いです。
支援者証明カードのスクリーンショットがありますとスムーズです。
支援開始時期と照らし合わせて現在公開中の最新データのパスワードを共有させていただきます!
更新は毎月25日までとし、
月末になりましたらあらためて全支援者にパスワードを共有いたします!
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
◆という感じで夏コミグッズ全て入稿完了しました!
うぉぉぉ…長かった…
そして!今から新刊入稿です…!
一旦、一旦ね?
ビールじゃああああああい!!!!!
新刊入稿〆切は8月頭なので今から修羅場です。
今から表紙です。
間に合えぇぇぇぇーーーーーーー!
という感じで8月頭も更新がちょっと難しいかもしれません…!
◆そして新刊作業がまだ残っているというのに…!
ねねちライブも行ってきます…!
耳が心配すぎるので延期する可能性も視野に入れておきます。
◆最近買った本
◆日本料理研究家 土井善晴先生
「一汁一菜でよいという提案」「一汁一菜でよいと至るまで」
絵に置き換えると世に公開されているプロ絵と趣味絵を一緒に語るな。疲れる。
絵というものもともとは楽しかったはずだ。楽になろう。
という東洋哲学らしい着地の仕方。
◆絶望の哲学者ショーペンハウアー「求めない練習」
ニーチェが批判した虚無主義・ニヒリズムを提唱した師の考えです。
この考えがベースにあると思うとなかなかいい事を言っています。
◆ミハイ・チクセントミハイ「フロー体験と創造性の心理学」
絵を描いている時にもこの精神の没頭状態『フロー』は訪れます。
この体験を言語化し、分解したいと思いました。なかなかに分厚い本なので楽しみ。
コミケ前で忙しすぎてフローの本までまだいけていないのが歯がゆい。
◆教養として学んでおきたいニーチェ
読了。
うおぉ…面白い…この哲学を以て明らかに自分の中に心情の変化が生まれていて、
なんだろう、確信めいたものといいますか心ブレない武器を手にした感覚。
あらゆる世の中の事象に対して割と達観視することができている
自分に気が付きました。
ここで普段から実践している思考法
[ジム・ローンの5人の法則]にニーチェを落としみました
この法則は最も長く時間を過ごしたあなたの周りの5人の平均値があなたになる
という最強ツールで、
考え方は勿論、仕事内容だろうが作業スピードだろうが年収だろうが
自分が決めたその5人に引っ張られるという思考法がありまして
その5人は心の底から尊敬できる偉人、家族、職場の上司や先生、
既に亡くなられた方、誰でもいいです。その人ならこの時どうするだろうかと
思考を巡らせているうちに自分もその5人の平均値が自分になる、
その5人の思考に引っ張られるというやり方があります。
その為には一旦その人の本を読むなり文章を読み取るなり直接話すなり
その人の考え方を取り込んでみること。
そうすると、その人の思考パターンが自分の中に生まれています。
ここに自分の近くにムキムキマッチョのニーチェがいて
ニーチェならこう答えるだろうなみたいな感覚。
割とどうとでも戦う事ができるような感覚。読んでよかった。
ニーチェ…おめえとんでもねえ脳筋だなあ!
オラ、ワクワクしてくっぞ!
ニーチェの本『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で
「諸君に超人を教える、諸君らは超人を克服せねばならない何かだ」というとても有名な台詞があります。
この超人とは何のことを、誰の事を指しているのかは言及されてはいないのですが、これは自身の事を超人と例えたベートーベン、
あるいは超人を題材にしたゲーテ
または人を超越した存在で言うならば
ギリシャ英雄時代のゼウス神と共に戦った人類の味方であり、
ティーターン神のプロメテウスの事を超人と教える。
この超人を超えるために君もパワーアップして超人となれ。と言っている。
ホアァァァァァァァァ?!?!
人類に火を与えたプロメテウス並みの神にならなきゃいけないの?!
人が?!
正確には違います。
これは道理ではなく、筋の話です。
ニーチェ本人の現代解釈ですが
根本が『力には道徳という卑劣な手ではなく、力で対抗せよ』
『隣人思想・利他主義は弱者の正当化』
という思想があり、
現代社会においてこの方マッチョに解釈されて描かれていて面白いです。
現代に落とし込むと
Q.SNSでバズッている神絵師と比べてしまって落ち込んでしまいます…
どうすればいいでしょうか…
A.ニーチェ
「うるせえ筋トレしろ」
「そんな事より筋トレしろ」
「まずは筋トレからだ」
「君は超人に勝つんだろう!!」
「弱者は復讐心というルサンチマンに囚われ、畜群となって君に襲い掛かり、引きずり下ろしてくる。ルサンチマンなんかに負けるな!」
「眼の前の鉄の塊に向き合え」
「鉄の塊を持ち上げる事だけに集中しろ!!」
「自 分 の 成 長 に 夢 中 に な れ ! !」
Q.最近ネット記事にもなっていましたが〇〇さんが炎上していて
自分も思うところがあります。〇〇さんのカウンターはこう言っていて…
A.ニーチェ
「で ぇ じ ょ う ぶ だ」
「そんなん弱者どもが畜群となって群がっているだけのただの奴隷運動だ」
「自分の貴重な時間を他者の為に、無駄な事に割くんじゃない。自分磨きをせよ」
Q.自分よりすごい推し活している人、沢山の人と交流を深めている人と
比べてしまい落ち込んでしまいます。
推し活グッズでもコンプしていたり自分だけの拘りを見せつけられ、
金額面でも格差を見せつけられてしまって推し活疲れを感じています
A.ニーチェ
「で ぇ じ ょ う ぶ だ」
「黙ってたっていずれ人は死ぬんだ。
その無意味な時間、貴重な時間をどう自分に使うか考えたらどうか?」
「ぬいぐるみを沢山並べる事が正義なのか?」
「人よりお金をかけることが正義なのか?」
「賞を貰ったからなんだっていうんだ?」
「人より奇抜なカスタムしたからなんだっていうんだ?」
「そいつは偉いのか?」
「評価されたら満足するのか?自分はどうだ?」
「友達100人できたらそいつは果たして正義なのか?」
「そんなものが素晴らしいとするならばそんなものはただの偽装でしかない」
「超人を倒す為に戦え。戦う事に夢中になれ!」
「おめぇはバーサーカーなんだろう!」
「超人になれ!」
「パワーアップしろ!」
Q.時折、学級会と呼ばれる批判、〇〇について~の論争がたびたび起こっています。
それについてどう思いますか?
A.ニーチェ
「でぇじょうぶだ」
「基本的に弱者の奴隷運動だ」
「新しい事を始めたりすると弱者は道徳を使ってマイナスな意見しか言わねえ」
みたいな思想の方です笑
いや、めっちゃ好きだわこの人。
東洋哲学が「無を受け入れよっ♪」
「自分なんてないよっ♪ない方が楽になれるよ♪楽になろっ♪」
という考えに対して、
西洋哲学、
特段この人は「生きる事は虚無。生きる事は戦いだ。戦え。
逃避するな。向き合え。そして無垢になって人生を遊べ」
と、基本的に頭抱えながら言う。
分かりやすくて好き。
自分レベルの超単純人間でもわかる。
人気な理由がわかる。
拡大解釈ではありますが、いや、合っていると思います笑
この人、とにかく道徳を嫌います。
(当時、キリスト教が道徳を盾に民衆を政治誘導・利用していた為)
言葉が強すぎるので思想強めの妄想癖でもあるのかと思いそうですが、
伝えたい言葉の真意はとても理解できます。
超人、この場合何かを残せている人の事を道徳やありとあらゆる物を利用し、引きずり下ろそうすのは
弱者の考えであるという根底があるからこそ
このような強めの言い方になっているのだなと。
ん?あれ?既視感がある…これ2世紀先の事を言っている、つまり現代のSNSか…?
でもこの人晩年、発狂して精神病棟に幽閉されて肺炎で亡くなっています。
ローマ広場で鞭打たれている馬を見て可哀想だと泣きついて
私はインドのブッダの生まれ変わりかもしれんし、キリストの生まれ変わりだと
知人達に手紙を書いては出しまくって心配されるくらいに精神がおかしくなってしまいました。
・仮面を好む
1800年から2世紀後の現代…
多様性を求めておきながら自分に関しては自分を受け入れろと多様性のない物を求めているダブスタの矛盾時代が来ると言っている。
・"ニーチェ解釈の"ニヒリズム 虚無主義
人生、この世の物は全て虚無 意味はない。というのがニヒリズム。
東洋哲学と似ている考えだが捉え方が違う。
東洋は無我になる事で空-縁起と繋がれる。
それは最上の快楽→曼荼羅のイメージ。
西洋は虚無。神は人間が殺してしまった。
キリストという絶対的な権力がなくなってからどう個として生きるかの考え。
絶対的で統一的な目標は無くなってしまったし、生きている意味もない。そもそもそんなものは存在しない。
位に捉え方が違う。
これを絵に置き換えると
描く意味?そんなものはない。そもそも意味なんてないのだから考える事自身が無意味。というのが虚無主義。
だけれど、この先があります。
・絵画のドイツロマン主義とついに繋がって感動。
1800年代、当時絵画の世界ではロマン主義というジャンルが流行っておりました。
自分の大好きなドイツの画家キャスパー・ダーヴィト・フリードリヒがこれです。
ニーチェが師とした同じくドイツの絶望の哲学者ショーペンハウアーいわく、
「生きる苦しみは芸術によって救済される」
だけれど、後にニーチェはそれはただのロマン主義だと後に猛批判する。
夢見がちなロマンチシズムはただの現実逃避。
確かにドイツ・ロマン主義を代表するキャスパー含め、様々な絵師達が一貫して
描いていたのは死生観をテーマにしたもの。
これぞニヒリズム。圧倒的絶望。ネガティヴ。
海外絵画を取り扱っている本屋でさえ、ほとんどが印象派の本なのに
ロマン主義は数十冊のみ。それくらいアングラな世界観です。
自分はもともとニヒリズムが好きなのかもしれない。
おっぱいばっかり描いてるのにね!!
この作品が一番好き
『月を見つめる二人の男』
生きるとは何なのか引き込まれる。山登りしている時の自問する時間、
登頂した時の達成感を思い出します。
しかしこれをニーチェはただの現実逃避のジャンルの一つでしかないと一蹴します。
枯れ木は死
歩きにくいゴツゴツとした岩は人生
月は人類の希望
この人はとにかく後ろ姿。
キリストという絶対的権力無き世界
常に道筋を照らしてくれた存在、希望を失ったかのように人はただただ立ち尽くすだけ。
それでも大自然は人々に容赦なく牙を向けてくる。
しかし我々はその世界の美しさに魅了され、新たな希望を見つけて歩き出していかねばならない。
ああ、だからこんな
虚無主義、ニヒリズムという超後ろ向きなジャンルを描かれていたのか。
そもそも世の中全体がそういう風潮だった。
しかし、絵画と密接な関係があるとは思いませんでした。
本を読んだ瞬間全てが繋がりました。
なるほど、この絵画が好きならこの哲学好きなわけだ。
なるほどね!ポンときました。
ドイツロマン派
自分はこの世界が大好き。
な ん で す が !
ニーチェはこんなんただの現実逃避のジャンルだと一蹴しています。
ロマンチシズムじゃあ生きてけねえよと。現実見ろよと。
地に足付けて生きろと。
え、ちょっと待って完全に悪口だこれ!!笑
絵は娯楽じゃだめですか!
絵は人を幸せにしてくれるよ?!
神なき世界で人は強大な自然とどう向き合うのか
思わず息を飲んでしまいます。
神は死んだ。
見てください。
もういかにも神は死んだといわんばかりの構図!
もう大好き。
当時社会全体がニヒリズムをテーマに表現されていたのでこのように
分かりやすい作品ばかりです。死にました!さあ!どうする?!のような。
まるで映画を観ているよう。
うわあ…美しい…絶望しか感じねえ…
ええ…?でも人生もこんな絵画のように
生きていかなきゃなみたいな感想。
この絵で明るい気持ちになんて決してなれない。
絶望の哲学者ショーペンハウアーは
人生の苦しみは酒と芸術で忘我できる。
だから逃避しよう!
と唱えますが、
しかし、ニーチェはかつての師に対し、そんなんただのロマン主義だ。
ニヒリズムを受け止めろ、芸術はニヒリズムじゃない。
酒や芸術では生きる苦しみから解放なんかしてやくれないと猛批判します。
つまりは逃避すんなと。
空気感が伝わってくる。
お先真っ暗のように、霧がかって先が見えない。
まるで人生のようで、すごい共感性が高いです。
一つの哲学の映画を観ているようだ。
美しい。けれどこの先には何も見えない絶望感も感じる。
だから好き。
絵を描いている時の心情表現もこんな感じ。
だから好き。
絵を描く事とはこのように内省みたいなものでもある。
「自分は何が好きなんだろう?」
この作品なんてもう最高。
足を悪くした一人の男が
画面中央のイエス様を見つけて岩にもたれかかりながら手を合わせて
祈りを捧げています。
既にもう息絶えているのでしょうか。
画面手前から松葉杖が落ちている事から
次々と急いで放り投げたのがよく分かる。
どれだけ救われただろうか。
あるいは徐々に徐々に松葉杖を落としていって
最後にもたれかかって既に力尽きたか。
足を悪くした絶望のあまり、
この人は死ぬつもりで雪山に入っていったのではないか。
そしてそこに現れたイエス様を見て「おおお…」と松葉杖を投げ捨ててすがるように流れ込んできたのではないか。
絶望と苦しみからの解放。
これぞニヒリズム。虚無主義。
いや、それ通り越してペシミズムという悲観主義?
このパワーに、この世界観に引き込まれる。
この人何があったんだろう?結局は人生ってこの人のように最後は小さな希望を見つける事こそが生きる事なのかもしれない。と教科書のような解釈ができる。
ちなみに前に母にこのジャンルを見せたところ
「あんた病んでんのかい」
と言われました。
はあああああ〜〜〜………
全然違う。
出た!意見否定=人格否定じゃないよー!
これがドイツロマン主義の絵画の最大の魅力です。
絵画の1800年代のドイツロマン主義を語る上で
同じ時代を生きていたドイツ哲学者のニーチェのニヒリズムは外せない。
学生時代、上野美術館でやっていたドイツ、ドレスデン展に行った時のショックが忘れられません。
「あ!!なんか時代背景とかよくわからんけど、この画好き!!!!
理由はなんか写実的で写真かと思うくらい綺麗だから!!」
初めて好きになった絵画のジャンルがニーチェの哲学と
リンクして感動しています。
でもかつての師ショーペンハウアーに対して手のひらクルーで猛批判してます笑
これはずっと自分の中に一つこのジャンルが好きと言う芯があるからこそ
歴史背景がスッと入ってきました。
キャスパーが活動していたのは1800年代。
当時の絵描き達は虚無主義・ニヒリズムをテーマに描いていました。
当時もそういう空気感だったのでしょう。
絵画展は今でいうところの新聞や映画のような役割をしていましたから納得です。
しかし、同時期、哲学者として活動していたニーチェは
これはニヒリズムではないと批判。
神は死んだ。
つまり、絶対的な権力はなくなった。超人はいなくなった。
ではどう個として生きるのか。
それを紐解いていく内容です。
そう思うと上で挙げた雪山で祈る男性も
キリストという絶対的権力なき現代になった瞬間、全く意味を無くしてしまったその
眼前の十字架、言ってしまえばただの偶像。
足も凍傷で動かないかもしれない。
早く食事を取らないと死んでしまうかもしれない。
にもかかわらず眼の前のただの木の像に向かって手を合わせて祈る行為に一体人生において何の意味があるのだろうかとも皮肉に受け取って観る事もでき、
地に足つけて生きろ。そう言われているようにも見え、
このジャンルの奥深さを思い知らされ、
とても前向きなメッセージを受け取りました。
・ルサンチマン。
復讐心・恨み・怨恨・憤り・劣等・嫉妬。
人を超える超人に対して力には道徳ではなく力で挑めとニーチェは説く。
弱者達は畜群となって道徳を作り出し、ルサンチマンで
超人を引きずりおろそうとするのはただの偽装である。
言葉強笑
いやしかし現代のSNSの縮図のような気がする…
ニーチェが最も嫌う構図が全て詰まっているのがSNSな気がする…。
炎上だの謝罪だの叩くだのなんだの。
まだ生きていた頃から2世紀後は弱者の世界と言っていて、
超人はギリシャ時代にいて、ニーチェの時代には既に超人はいないという解釈。
自分で人生の目的を持って新たな価値を見出し、
力強く生きていけと説いている。
・パースペクティブ主義
大前提として今まで信じてきた物が根底から覆される。
観点や立場によって物事の理解が可能になり、道徳的に判断ができる。
・ニーチェの有名な「神は死んだ」は
ニヒリズムの言い換え
(別にニーチェがオリジナルではない。ツァラトゥストラの老人の台詞が
あまりにもアイコニックな意味合いが強い為、そっちが有名になっちゃった。)
・絶対的だと思うような考え方や生き方を正当化できるようなものは何もない。
・強すぎる。
・何が許されて何が許されないか、それを合理的に説明する根拠は何もない。
・怖過ぎる。
・烏合の衆、畜群本能 多くの人が集まってみんなで同じ事を信じているのが真理ならば真理というのはまさに多くの人に信じられた嘘である。
そんなものは真理とは言わない。
・待って言葉強すぎん?
けど、めっちゃ重要な事言ってる。
・何のために生きているのか→そんなものは何もない。これがニヒリズムの発想
ロマン主義の画から感じるのはこの力か。
・え、この世に生を授かった時点で不幸って言っているんですよね
・え、じゃあ何で君生きてんの?(悲観主義・ペシミズムのパラドックス)
・人生とはまさに苦しみであり、生きることそのものに何らかの意味を求める事はできない。(悲観主義・ショーペンハウアー)
・ディオニュソス的思考。ディオニュソスはギリシャ神話のお酒と芸術の神
生きる苦しみを忘却させるもの、
それは造形芸術・視覚芸術と音楽芸術を対比させた。
お酒や芸術で忘我によって生きる苦しみから救済される。
・おおおおなんか繋がってきた!?
・しかし「悲劇の誕生」書き上げて10年後、
ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」を書き上げた時には
それらを否定している。
・なんやねんな。
・人々を巻き込んで自身の生きる苦しみを忘却させる形で音楽を利用すんじゃねえと
・ショーペンハウアーの発想に影響を受けながら最終的に強烈に批判している。
・え、待って反転アンチ?
・そもそもニーチェには弟子は師を超える為に最終的に師を批判しなければならないという思想があり、それがこの言葉に詰まっている。
・永遠回帰(永劫回帰) 生きるという事は同じ事の繰り返しであり、退屈である。
京都の哲学の道で有名な西田幾多郎と似たこと言ってる。
全体的に俯瞰的に観て何のためにこんなことをしているのかと一瞬でも考えた時、果たしてどのように答えるのか?
・ショーペンハウアーは逃避戦略。芸術で忘我しよう。
・ニーチェは繰り返すのみ。ただ、それは退屈だと説く。
・生きる意味?ない。え、じゃあなんで生きてるの?ニーチェは繰り返すしかない。
人生は退屈だ。それだけ。
これがニーチェの永遠回帰であり、ニヒリズム。
・生きる意味なんてないがベースにあるのだから
「じゃあなぜ生きているのか」というペシミズムのパラドックスに陥るので
生きる意味とはと考えている時点で自己矛盾が生じている。
東洋哲学のインドの龍樹もそんなもん意味を考えている時点で無意味。
時間の無駄と言ってきそう。
だから人生とは退屈と結び付けて俺は芸術で忘我なんてしねえ。
ただ地に足つけて生きるのみとニーチェは言っている。
・「事実は存在しない。全ては解釈である。」
・パースペクティブ主義 絵画のパースと同義語。
一人一人の立場、ポジションによって違うということを主張。立場が違うそれぞれの人がそれぞれ自分の立場に応じて対象の中に放り込む
という考え方。当然ものの見方もそれぞれの立場の違いによって変わってくる。
そこで初めて価値を見出す。
・自分に都合のいいように切り取って喋るポジショントークも似てるかも。
・判断というのはその人の基本的な趣味、いわゆる主観を対象のうちに投げ込んでしまう。主観主義にも言い換えられる。
・それぞれの人にそれぞれのパースペクティブがある。
・全ての人が正しいと認めるものを消してしまうという意味でニヒリズム。
・真理なんてない。
・ルサンチマンはキルケゴールがオリジナル。
・道徳の根源はルサンチマン。(復讐心)
?それは言い過ぎでは?!?!
・利他主義的
・そもそも生物学の基本的な関係性は力と力
(セルと戦って悟飯が覚醒した時の影山さんの挿入歌のタイトル
~魂VS魂~ということか)
・力が強い人は傲慢で、他人の事を考えず、自分本位である。 ここ。
・人の為に動く利他主義(他人に対して謙虚、困った人を見たら我が身も顧みずに手助けをする)は美徳に聞こえるがそんなものは弱者による
奴隷道徳と厳しく非難する。
・え、だからさ、言葉強
・もともとニーチェは現代は超人を引きずり下ろす為に(ルサンチマン)弱者が集まって道徳を作り上げた。それが民主主義。
民主主義で選ばれた国を統べる統治者だって弱者と説いている。
だけど、事の本質は当時、民衆を政治利用していた絶対的な権力者である教会組織を批判したかった。
・いやしかし最近とある絵描きに「誰とは言わないけど」のていで名指しこそされなかったけれど、明らか自分の事批判しているだろうなの件があったな…
それくらいに活躍できているという証左ではあるのだけれど、
あれこそニーチェの言葉を借りるならパースペクティブという自分の主観主義で
超ポジショントークでルサンチマンによって道徳を借りて引きずり下ろそうという弱者の奴隷運動という事なのかと納得してしまった。(言葉強)
SNSで戦う現代絵描きこそニーチェの哲学書読んだ方がいいかもしれない。
強靭な心が手に入る。
絵描きなら道徳と感情を利用して影で言葉を使って攻撃して
隙あらば引きずりおろしてやろうではなく、
力(絵)で対抗してこい。
筋が通らねえ。
小心者の毒蛇め!てめぇらはデブリの巣穴に隠れなきゃ戦えねえのかよ!
(ガンダムサンダーボルト/イオ・フレミング)
・力のない人達を自己正当化するのがルサンチマン。
力のない人と直接対決しても絶対に勝てないので自分達が弱者であることを正当化して、自分達はいい人なのだという風に意味を変える。
遺作の『権力への意志』は妹が都合のいいように改竄して出版した為、タイトルの権力というところと、弱者と強者の部分を都合よく曲解されて、
ナチスに政治利用されてしまった。
そもそもニーチェは極端なナショナリズムに反対していた事もあり、今もニヒリズムと強者と弱者の解釈についてはニーチェ=ナチズムと誤解されている。
・P136隣人思想
・キリスト教は貧しい人こそさまざまな人間性を備えている、助け合うのは素晴らしいですよと説くがそれら全ては弱者の正当性と言っている。
・言葉強
・ニーチェにとって弱者とは
・権力を持った人間は強い者とは言わない。あくまで弱者が支配権を握っているので
その権力者は弱者によって選ばれた弱者である。
支配権を握ったものが強者になるわけではない。弱者は集まって道徳を作り上げて強者を引きずり落す事しかしないからだと言っている。
・現代は弱者の世界
・では強者とは?
おそらくギリシャ神話のプロメテウスのような存在を想定していた。
ティーターン神族でありながらゼウスに味方になるもゼウスと対立。
人類の味方になって火を与えた神。
・ええ?!こんなケフカ最終形態みたいな神に対して力で対抗せよって言ってるの?!まあ確かにケフカはレベル上げして力で倒さないとクリアできんけど…。
・ゲーテ、自身の事を超人と言ったベートーベンもこれに含まれている。
「じゃあ力を持たないものは、その組織に、システムに入れない人はどうするの!?それは違うってどうやって言えばいいのよ!」と脳内の紅月カレンが言っている…。
でもニーチェならそのカウンターとして
「力無き者は筋トレして力をつけよ。
弱者ほどよく吠える」って言ってくると思う…笑
いや、でもベートーベンみたいな人間離れした人ならざる人も「超人」に含まれるというのであれば、この人間に勝つ為には道徳で引きずりおろすのではなく、
力(この場合、同じ土俵の音楽)で対抗せよというのは
筋が通っているので分かる。
脳筋だけに。
道徳を借りて言葉で引きずりおろそうとしてきてんな…
と思ったら相手の土俵に自分も降りて言い返すのではなく、
力で対抗してこい。そしたら話を聞いてやる。
でいいと思う。
ニーチェ、マッチョだ。
・ギリシャ英雄時代の事を強者の世界と言っており、キリスト教が成立した後はほとんどが弱者になっており、弱者たちが自分を正当化することによって支配権を握ってしまったと考えている。
・超人という概念も別にニーチェオリジナルではない。
・基本的にこの人パロディ大好き人間
・ニーチェにとって自分をパワーアップさせるという事が重要と考えていた。
だからマッチョに描かれてるのかこの人笑
超サイヤ人とかトランザムみたいな状態を目指すか…
ゴジラキングオブモンスターズの限界核融合ゴジラみたいな状態。
・権力への意志の極限モデルが超人。
・生きる事は同じ事の繰り返しで退屈である事を肯定する、それが超人。
・一つは権力への意志を最大化した超人。
プロメテウス=キリスト教の権化みたいな。
・もう一つは永遠回帰を耐えられるのが超人。
・ほえぇ????これに対して力で対抗するの??????
・生きる事を否定するのは悲観主義であるショーペンハウアーの発想であり、
これをニーチェは
「生きるのは苦痛であるというのならじゃあなんで貴様は今生きてんねん」
「じゃあ◯ねばいいんじゃないですか?」
「貴様は嘘をついている」と嫌っていた。
悲観主義・ペシミズムは矛盾している。おかしい。
・人生はつまらない、生きている意味がないというのは弱者の考えであり
そもそも人生に意味を求める事自体が間違っているというのがニーチェの発想
・ここブッダの思想に似ている。
・ただただ苦しいだけの永遠回帰を生きる為に強者に打ち勝てと言う。
東洋は自分なんかがいるから苦しくなる。無我となり、空となり、縁起となり楽になろう。という考え方。
西洋、特段ニーチェはもともと生きるのは苦しいのだからプロメテウスやベートーベンのような人ならざる人という超人を超える為に己を磨けと言っている。
諸君を道徳だとか世の理だとか耳障りのいい他者の言葉を借りて引きずり下ろそうとする連中はルサンチマンに囚われた弱者だ。打ち勝て。筋トレしろ。と言っている。
ああ…どちらかが合っているとは言わないけどディベートした結果、こっちの方がやっぱり好きかもしれない…。
まっすぐで分かりやすくて好きぃ…自分は力で戦いたい。
でも日本に生まれたからには日本の哲学も知りたい!
となっております。
で。
永遠回帰の先はどうあればいいのか。
人生は苦しく、退屈であるならば。
芸術は逃避ということであるならば。
最終的に人はどうあればいいのか。
それは精神の三つの変化の最終段階を目指すべきと言っている。
・精神の三つの変化
ツァラトゥストラはかく語りき。でこう説いている。
・人は精神の変化でこのような順番で変化していく。
駱駝(ラクダ・服従)→獅子(ライオン・闘争・自由)→子供(純粋に生きる)の順番で変化していくと言っている。
①駱駝
重荷を背負い、勉学に励み、従順に耐え忍ぶ段階。
②獅子
社会の常識や権威に対して拒否を突きつけ、自分で破壊して自由を勝ち取る。
③子供
過去のしがらみに縛られることなくゼロから創造する。全てを新たに始める。遊ぶ。
まさかの子供が精神の最終段階。
ニーチェは最終段階として子供を目指せという。
…あれ?
これ、日本武道の守・破・離という考えに繋がったぞ!?
西洋でも同じ事言うんや!!
①守
師の教えを徹底的に守る。
②破
基本の教えからこれまでの型を応用させ、自分のスタイルを確立させる。
③離
そして師から離れ、既存の枠組みから外れる。新たな境地を開拓する段階。
武道以外でも、学問に置いても、絵だろうが転職だろうがなんだろうが、
生きる事全てに当てはめられると思います。
・「自分自身の為に遊ぶ」 その概念は人それぞれ。
・ニヒリズムを受け入れながら生きる事を肯定するのであればどのように遊ぶかが重要。
・自分も考えた瞬間、即答する事ができた。
それは生きる事とは、人生を遊ぶ事とは
自分にとってまさしく絵を描く事だ!!
・絵を仕事にしたサラリーマン時代、厳しいフィードバックの毎日で自己否定され、絵が嫌いになってしばらくPCをつけなかったあの数年は今思うと生きていなかった。
死んでないだけ。
絵を描くことは自分にとって生命活動。
好きが嫌いになる。それは即ち個の損失だった。
ただただ苦しかった。絶望しかない。
・ニーチェはパロディが好きなのでひたすらパロディを書いて遊んでいた。
師であるショーペンハウアーに牙を向けたのは②の獅子の段階と思われる。
「いや、師よ!それはおかしい!!」と噛み付いた。
・ショーペンハウアーは人生は苦しみであり逃避しようと提案する。
・ニーチェは人生は同じことの繰り返しであり、人生は退屈なもの。
だから、最終的に人は学ぶという受け身の段階から自立して子供に戻って人生を遊ぼう。と提案する。
すげえ………なんだこの人…。
ニヒリズムってすごい悲観主義、ペシミズムみたいな
そもそも生まれ落ちた時点で不幸で生きる意味なんてないので最終的には死ぬしかないみたいな文字通りの悲観主義、解釈かと思っていたらこの人は全然違う解釈してる。
・自分にとって
「絵を描く事とは何なのか?」
「何のために描くのか?誰のために?」
「この生きている間に何を描いて残すのか?」
という問いが生まれていましたので
即答することが出来ました。
自分自身の為に人生を生きろ?
それは自分の為に絵を描くぞ!!
そしてそれは周り回って「自他」の為になると確信しております。
日本哲学者の西田喜太郎も善の研究という本の中に
「自己を深めた先に自他がある」と仰っています。
これがまさに絵も同じだと思います。
ピンと来ていない人にとってみれば
ニーチェはただの権力志向を持った妄想癖のある人くらいにしか思えないかもしれません、が、
真理だ…。
世の中には二元論・デュアリズムが存在する。
①ディオニソス的思考 酒と芸術の神
②アポロン的思考 規律を守る神
この二元論は芸術の分野でも使われる。
ニーチェの言葉
・「いつまでもただ弟子でいるのは師に報いる道ではない。
なぜ君達は私の花冠を毟りとらないのか」
この言葉に力には力の本当の意味がある気がします。
わかった。
勉強させていただきます!という思考ではいつまで経っても最前線には立てない。
自分も殻を破って師に叛逆する。
その場合は言葉という道徳を使って批判ではなく、力(絵)で勝負する。
子供に戻って絵を楽しむ。
それが自分にとってのニヒリズム。虚無主義。
・この人も守・破・離の離をせよと説くか。
・強者を良い、弱者を悪いという考えは貴族道徳
・ああ、シャルル・ジ・ブリタニアね
・その後の弱者を善とし、強者を悪とする時代が来る。これを奴隷道徳と呼ぶ。
・ああ、黒の騎士団ね
・ん、まあ確かにピンと来ない人には
思想強
怖
となるかもしれませんが、哲学はその人の問いに対して一つのアンサーを投げかけ、
そのまま受け入れつつ、守破離の離、そして子供のように
独自解釈し、最終的に俺はそうは思わねえ!あんたの答えはなんだ?!
自分だけの生き方を見つけて独り立ちせよと
説いているのがニーチェの哲学の面白さと人気の秘訣だと思いました!
冒頭で述べた
ジム・ローン5人の法則の中にニーチェがいる感覚がある。
ああ、ニーチェならこう答えるだろうなのような即答できる感覚。
どんどん自分の中に武器が増えていく気がする。
なんか世の中や自分の使命感みたいなものに楔が撃ち込まれた感覚があり、
まだ咀嚼したばかりでまだ駱駝の状態ではありますが
カウンターである東洋哲学を先に吸収した後なので
この似ているようで混ざりようのない西洋と東洋の哲学をバチらせて
自分の中で一つの独自の哲学が生まれようとしている事に気が付きました。
この感覚!これ!このビッグバンの感覚!
これこそ本を読んでよかった!という気持ち。
もっと知りたい!という欲がすごいです。
大人になってから哲学書読んだ方がピンと来ていいな…!
絵を描くこととは内省みたいなものと
捉えている絵描きにとって
この哲学は…
沼だ…!!
そして、先に述べた
絵に当てはめるとこう解釈しました。
絵を描く意味なんてない。苦しいだけ。個があるから苦しくなる。
自分自身という存在がそもそもボトルネックになっている。
自分なんて捨てちまえ。
絵画展に行ってお酒を飲んで夢を語りあっても匿名で何かを言ってもくだを巻いてもそんなのはただのロマン主義であり、逃避である。無意味。無価値。
周りは隙あらば引きずり下ろしてくる。
ではどうするのか。
ただ描くだけ。描いて公開するだけ。
そこに個は存在しない。いらない。
同じことの繰り返しはただただ退屈。
だけれど、その先が違う。
自由になって絵で遊ぶ。繰り返しは退屈なのだから。
だから毎回違うことをして、
色んな商材や先生達が教えてくれた「こうである」の真逆をする。
「俺はそうは思わねえ!」「好きに描かせてもらうぜ!」
それが絵描きにとって、自分にとってのニヒリズム。
絵描きの虚無主義とは自由に描くだけ。
これをやるとどう思われるだろうか、どう評価されるだろうか、バズれるだろうか、何いいね、何RTありがとうございます!
とか考えるだけ無意味。
絵は自由なのだから。
この自由を楽しむ。全ては自分の為に。
自己を深めた先に自他がある。
自分を愛した先にそれは廻り廻って人の為になる。
その為には絵を楽しむ。人生を楽しむ。自分を愛する。
その先には人を楽しませ、人を愛することができる。
こう捉えることができました。
もっと自分の絵を愛そうと思いました。
そうだ。もっと自惚れろ。
自分の為に、自分が欲しいから描く。
自分がヌきたいから描く。それで結構。
それは廻り廻って人の手助けになる。
◆もっと色んな哲学が知りたいなと思ったら
昔の哲学者で京都の哲学の道で有名な西田幾多郎氏、
この方がまさに西洋哲学と東洋哲学の善の両方を学んで
己の哲学を導き出した方でこの方をもっと知りたいな!となりました。
Comments (0)