✿みぃな⋆*/Miinya - みぃなの日常✿第5話『面接』 — page 1
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✿みぃな⋆*/Miinya - みぃなの日常✿第5話『面接』

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みぃなの日常✿第一話『いつもの朝』

⑅∙雨谷こはるは、準備を怠らない女である。∙⑅

⑅∙日常のあらゆる出来事は、事前のシミュレーションによって九割九分まで制圧できる。アルバイトの面接ともなれば、なおさらだ。入室時の角度。着席までの歩数。履歴書を差し出す速度。想定される質問リストと、それに対する模範回答。昨夜のうちに脳内で三回リハーサルを済ませ、全勝で朝を迎えていた。∙⑅⑅∙こむぎ屋の前で立ち止まり、通学鞄の中身を最終点検する。履歴書はある。角は一ミリも折れていない。自分の背筋も、履歴書のケント紙に負けず劣らずピンと伸びている。∙⑅

こはる(自宅からの通り道なので通いやすい。部活は最後の大会を終えて引退済み。卒業までの期間、放課後と土日は安定して勤務可能)

⑅∙事実だけを並べても、採用側にとって一点の曇りもない優良物件である。だが、面接とは情報伝達ではなく心理戦だ。「条件が合うから来ました」だけでは、店主の心を撃ち抜く最後の一押しが足りない。そこで昨夜、戦略的な一行を追加してある。∙⑅

こはる(――そして何より、パンが好きなので)

⑅∙完璧な殺し文句である。履歴書の志望動機欄にはあえて書かず、口頭で添えるために温存しておいた切り札だ。自分の焼いたパンを好きだと言われて、悪い気のするパン屋など地球上に存在しない。∙⑅⑅∙こはるは硝子戸に映る自分の姿を見て、制服の襟元を指先で整えた。乱れのない身だしなみ。知的で落ち着いた眼差し。どこからどう見ても、即戦力の頼もしげな女学生である。∙⑅

こはる(完璧です)

⑅∙まだ面接官の顔すら見ていないのに、すでに首席合格者の顔つきであった。∙⑅⑅∙からん。∙⑅

みぃな「いらっしゃいませっ♪」

こはる「こんにちは。本日、アルバイトの面接のお時間をいただいている雨谷です」

みぃな「あっ、お待ちしてましたー! 店長っ、面接の方がいらっしゃいましたよっ♪」

店長「おおっ!! すぐ行くぞぉぉぉ!!」⑅∙びくっ。こはるの肩が三センチ跳ねた。最初の面接項目は、鼓膜の耐久テストだったらしい。∙⑅

健「あはは、びっくりしたよね。こっちどうぞ。そこの空いてる椅子に鞄置いていいよ」

⑅∙売り場にいた男性店員が、手慣れた様子で奥の休憩テーブルへ案内し、椅子を軽く引いてくれた。こはるがまだ震えている厨房の暖簾を振り返ると、彼は少しだけ声を落とす。∙⑅

健「大丈夫、全然怒ってるわけじゃないから」

こはる「……今ので、ですか?」

健「うん、今のでご機嫌な時の通常音量」

⑅∙求人票の労働環境欄に、デシベル数の記載はなかった。明らかな重要事項の不告知である。∙⑅

こはる「……ええ、知ってます。活気があるのは良いことですので」

⑅∙知らなかったが、知っていた顔で頷き、鞄を隣の椅子へ置いた。動揺はゼロコンマ二秒で鎮圧した。屋内の音圧が想定を上回っただけで、こちらの作戦計画に一切の狂いはない。∙⑅*⑅∙向かいの席へドスンと腰を下ろした店長に、こはるは履歴書を両手で差し出した。その隣には、シフト表を挟んだバインダーを持つ先輩らしき女性店員。さっき迎えてくれたピンク髪の看板娘は、コップの水を置くと、少し離れた丸椅子へにこにこと腰を下ろした。昼のピークが過ぎた、短い午後の凪である。∙⑅

店長「こはるちゃん、だな! 俺が店長の――つまり店長だ!」

こはる「はい、本日はよろしくお願いいたします」

梓「先輩の梓です。先に働ける曜日と時間から聞かせてね」

みぃな「みぃなですっ♪味見専門です!」

健「俺は健。あとで売り場のことも説明するね」

⑅∙健は表のトレーを布巾で拭きながら軽く手を挙げた。こはるは一人ずつ角度を変えて会釈を返す。第一印象、満点。姿勢、減点なし。ここまでは昨夜のリハーサル映像と完全に一致している。∙⑅

梓「部活はもう引退したのね?」

こはる「はい。先日の大会が最後でしたので、卒業までは時間に余裕があります。平日の放課後と、土日でしたら問題なく入れます」

店長「おお、土日も入れるのか! そいつは大助かりだぁ!」

こはる「通学で毎日この前を通っていますので、通勤の遅刻リスクも極めて低いかと」

梓「うん、通り道なら無理なく続けられそうね」

⑅∙手応えしかない。事実に基づいた質疑応答とは、かくも盤石なものなのだ。「嘘を混ぜなければ無敵」という至極当然の真理に、この時のこはるはまだ気づいていなかった。∙⑅

店長「うちを選んでくれた理由は、ほかにもあるのか?」

こはる「はい。――パンが好きなので」

⑅∙出た。温存していた必殺のカードが、今、テーブルの中央へ切られた。∙⑅

店長「そうかあっ!!」

みぃな「わぁっ、一緒です! 私もパン大好きなんですよぉ♪」

⑅∙店長とみぃなの顔に、真夏の太陽みたいな照明が灯った。こはるは内心で小さくガッツポーズを決める。やはり効いた。履歴書のインクでは表現できない情熱を、わずか一言でねじ込んだのである。∙⑅みぃな「えへへ、こはるさんは、どんなパンがいちばん好きなんですか?」

こはる「…………」

⑅∙たった一言の請求書が、秒速で発行された。∙⑅

こはる(どんなパン)

⑅∙こはるの脳内会議室で、非常ベルが鳴り響いた。∙⑅⑅∙適当なパンの名前を一つ挙げること自体は難しくない。食パン、カレーパン、メロンパン。だが、目の前の少女の瞳を見てみろ。あれは「メロンパンです」と答えたら、次の瞬間には「どこのお店のどんなメロンパンですかっ? 外はカリカリ派ですか、しっとり派ですかっ?」と、食レポの千本ノックを放ってくる目だ。最近の主食が白いご飯と購買の春雨スープであるこはるに、そんな実弾戦を生き残れるはずがない。∙⑅

こはる(落ち着け私。こういう時は、個人の曖昧な感想ではなく、客観的なデータで殴るに限ります……!)

こはる「……やはり、あんぱんは明治七年からの確固たる実績がありますので」

梓「パンをキャリア採用の目線で見てるわね」

こはる「重大な判断を下す以上、歴史的根拠は不可欠です」

⑅∙売り場でトレーを拭いていた健の手が止まり、ひょいと顔が上がった。梓と一瞬だけ視線が交差する。まだ面接開始から三分しか経っていないのに、応募者の『なんか面倒くさいボタン』が早くも押されていた。∙⑅

店長「おお、明治からか! そんだけ長く食われてるってことは、それだけ愛されてる証拠だなぁ!」

こはる「はい。しかも翌年の明治八年には、八重桜の塩漬けをへそに埋め込んだ桜あんぱんが明治天皇へ献上されています。イースト菌ではなく酒種発酵を用いた日本独自のハイブリッド開発であり、国家レベルの承認を得たという点でも、あんぱんは極めて強い第一候補かと」

梓「今ここの候補者は、あなた一人だけどね」

こはる「……いえ、今は私の話ではなく、あんぱんの話をしています」

みぃな「わぁ〜、あんぱんってそんなに大先輩だったんですねぇ♪」

店長「おう! 俺なんかよりずっと大先輩だぞぉ!」

⑅∙よかった、話の分かる純粋な人たちだ。こはるが胸を撫で下ろした横で、健が「あれ、これ止めなくていいんですか?」という顔で梓を見やり、梓が「もうちょっと様子を見ましょう」という顔でバインダーを持ち直した。∙⑅こはる「ですが、だからといってあんぱん一強と断じるのも早計です。明治三十三年には、日清戦争後の乾パン製造技術を応用し、さらにビスケットに杏ジャムを挟んだ洋菓子から着想を得たジャムパンが登場しています。つまり、あんぱんが文明開化の象徴なら、ジャムパンは二十世紀の幕開けを告げたイノベーションであり、ここで私が一方だけを『好き』と指名することは、日本の近代製パン史における外交上のバランスを欠く行為と言いますか――」

梓「あの、普段どっちをよく食べるかって聞いてるのよ」

こはる「……普段」

梓「聞かれるたびに、その日本語を初めて見たみたいな顔になるわね」

こはる「違います、今、脳内で統計を整理しています」

⑅∙こはるは座ったまま背筋をさらに二センチ伸ばした。人間、姿勢さえ直角に保っていれば、中身がすっからかんでも「深く思索している賢者」に見えるはずだ。なお現在の脳内は、火災現場であった。∙⑅こはる「そ、そもそもですね、『普段いつも同じものを食べる』という行為自体、生物学的なリスク分散の観点から見れば非常に危険なんです! たとえば十四世紀の哲学者ジャン・ビュリダンが提唱した『ビュリダンのロバ』の思考実験をご存じですか? 全く同じ距離に置かれた二つの干し草を前にして、理性だけで選ぼうとしたロバは決断できずに餓死するんです! つまり私が特定のパンを一つに絞らないのは、決してパンを食べていないからではなく、人類として餓死を回避するための高度な生存戦略であって――」

梓「パン屋の前で餓死の話しないでくれる?」

店長「いや、いいぞぉその姿勢!! 既存の枠に囚われず、常に全てのパンの可能性を模索する……それこそが新しいパンを生む開発者の魂だぁぁ!」

⑅∙バンッ!と店長が自分の膝を叩いた。大変である。バイトの面接に来ただけの女学生が、なんか知らんうちに商品開発部のチーフへ抜擢されかけている。∙⑅

みぃな「すごいですっ! こはるさんって、お家で新しいパンを発明したりもするんですかっ?」

こはる「えっ? い、いえ、そういう意味では――いえ、理論上の可能性として、脳内で構築すること自体は不可能ではありませんが」

梓「ほら、履歴書にない質問が増えたわよ」

⑅∙増やした張本人が、一番冷や汗をかいている。紙の履歴書を提出したはずが、口頭弁論のせいで『明治から現代までの製パン史を背負う開発顧問』という架空の経歴が爆誕しかけていた。∙⑅こはる「た、ただですね、理論の構築と実際の製造ラインは別問題ですので! アリストテレスも『形相』と『質料』を区別していますし、私はまだオーブンという物理的設備を用いた実装経験はなく、あくまで今申し上げたのは『選ぶという概念への哲学的アプローチ』であって……っ」

みぃな「ふむふむ! じゃあ、作るほうじゃなくて、食べるほうの博士さんなんですね♪」

こはる「……いえ、そこまでの者では」

⑅∙そこは本心からの訂正だった。お願いだから文字どおりに受け取って、今すぐ博士号を剥奪してほしい。だが、焦りで声が三トーンほど小さかった。∙⑅

店長「ガハハ! 謙遜するな! その若さでそこまで勉強してりゃ立派な博士だぁ!」

こはる(違うっ、謙遜じゃないんです! 誰かこの増築を止めてください……っ!!)

⑅∙順調に評価が天井を突き破り、こはるが地上へ降りるための非常階段が完全に消滅しかけた、その時だった。∙⑅

健「あ、だったらさ、一回売り場の棚を見てもらったらどうかな?」

⑅∙トレーを片づけ終えた健が、売り場との境目からひょいと声をかけた。∙⑅

健「今ちょうど焼きたてが並んでるし、実物を見たら『あ、これ気になるな』ってやつが見つかるかもしれないよ」

みぃな「あっ、それ名案ですっ! 見に行きましょ、こはるさん♪」

こはる「……ええ。百聞は一見に如かず、現地現物主義は調査の基本ですので」

梓「最後まで視察団の団長みたいに立つわね」

⑅∙椅子から立ち上がる瞬間まで、ただのバイト志望者に戻り損ねたこはるであった。∙⑅*⑅∙昼下がりの売り場には、まだ十種類以上のパンがずらりと並んでいた。みぃなが棚の前へこはるを案内し、隣から嬉しそうに覗き込む。健は入口近くへ先回りして、二人が並んで歩けるようにトレーの台をすっと脇へ寄せた。∙⑅

みぃな「この上の段が甘いおやつ系で、こっちの下がおかず系なんです! こはるさんは今、どっちの気分ですか?」

こはる「……甘いものを」

⑅∙よし、五文字で答えた。主権は守った。二択で範囲を絞っただけなら、まだ歴史年表を開かずに済む。∙⑅

みぃな「なるほどなるほど、私も今ちょうど甘いもの気分でしたっ! 見てくださいこのあんぱん! てっぺんのつやつや、すっごく綺麗じゃないですか!?」

⑅∙こはるは言われるまま、棚の上の丸いパンへ視線を落とした。みぃなが見せたいのは、ただの美味しそうな焼き色だった。明治天皇も、フランスの哲学者も、この丸いパンの上には乗っていない。∙⑅

こはる「……ええ。とても綺麗な焼き色ですね」

みぃな「ですよねぇ♪ 私、このつやつやを見るのが毎朝の楽しみなんです!」

⑅∙なんだ、これでよかったのだ。こはるは胸の奥で小さく息を吐いた。さっきまで百年単位の文明論を振り回していたのが嘘みたいに、たった一言の感想で会話が成立している。∙⑅

みぃな「ちなみに、こはるさんは粒あんとこしあんだったら、どっち派ですか?」

⑅∙まだ第二ラウンドがあった。∙⑅

こはる(粒か、こしあんか……!? ここで粒と答えて『小豆の皮の食感がたまらないですよね!』と振られたら? いや、こしあんと答えて『あの舌触りが!』と深掘りされたら……っ!?)

こはる「……そ、そうですね、小豆の種皮を残すか除去するかは、単なる好みの問題ではなくポリフェノール含有量と水分保持率のトレードオフでありまして、そもそも日本の小豆加工の歴史を紐解けば――」

健「あはは、そこは今見てパッと気になったほうでいいよ。うちのやつ、まだ食べたことないだろうし」

⑅∙すぐ横で値札の角度を直しながら、健がさらりと言った。∙⑅⑅∙こはるの目を覗き込むでもなく、答えを急かすでもない。「まだ食べたことがない」という、こはるが死ぬ気で隠していた事実を、「うちの店のパンなら当然だよね」という一番傷つかない形へ自然に置き換える声だった。∙⑅

みぃな「あっ、そっか! そうですよね、今日が初めてのこむぎ屋ですもんね♪ じゃあ、見た目がかわいいほうはどっちですか?」

こはる「……では、こちらで」

⑅∙こはるは、自分から三十センチ近い位置にあった粒あんを指さした。選定理由は「物理的な距離」である。人類がパンを選ぶのに、明治維新もポリフェノールも必要なかった。∙⑅

みぃな「やったぁ、私もそっちよく買います!おそろいですねぇ」

こはる「……ええ、光栄です」

⑅∙指先を下ろし、こはるは誰にも聞こえないように肺の空気を入れ替えた。すぐ隣の健は、もう何事もなかったように入口の黒板を拭いている。今の一幕を掘り返す気は、最初から一ミリもなさそうだった。∙⑅

こはる(……助かった)

⑅∙今日この店に入って初めて、昨夜用意していなかった素直な言葉が、こはるの胸にぽつりと浮かんだ。∙⑅*⑅∙売り場から休憩テーブルへ戻ると、厨房を見に行っていた店長に代わって、梓がバインダーの勤務表を開き直した。∙⑅

梓「さて。じゃあここからは、実際の仕事の話をしましょうか」

こはる「……はい」

⑅∙では、ここまでの二十分間はいったい何の面接だったのか。応募者の側からは絶対に質問できない案件である。∙⑅

梓「最初はレジも袋詰めも分からないことだらけだと思うけど、分からない時はどうする?」

こはる「確認します」

⑅∙0.1秒で即答した。知ったかぶりで百年前の歴史を語り出すより、最初にそうすべきだったと骨の髄まで学習した直後である。∙⑅

梓「誰に?」

こはる「……近くで働いている先輩方に」

梓「よろしい。変に自分で立派な理由を組み立てなくていいから、すぐ聞いてね」

⑅∙こはるは深く頷いた。なぜか自分の内臓までレントゲンで透かされているような的確なアドバイスだったが、きっと新人全員に言っている定型文なのだろう。そういうことにしておいた。∙⑅⑅∙そのまま放課後のシフトと初出勤の日取りが決まったところで、厨房から店長が戻ってきた。∙⑅

店長「よぉし、決まりだな! 来週からよろしく頼むぞ、こはるちゃん!」

こはる「……ありがとうございます。精いっぱい頑張ります」

⑅∙こはるは立ち上がって、綺麗な四十五度のお辞儀をした。勝った。採用された。主戦場が「明治製パン史と哲学的ロバ」だったこと以外は、すべて昨夜の計画どおりである。∙⑅

みぃな「わーい♪ こはるさんと一緒にお仕事できるの、すっごく楽しみですっ!」

店長「うちのパンもどんどん食って覚えてくれ! 好きなパンが増えると、売り場に立つのが十倍楽しくなるからな!」

こはる「はい、心得ています」

⑅∙増やす前にまず「ゼロから一」を作るところからスタートなのだが、そこは黙って微笑んでおいた。∙⑅

健「じゃあ、初日に持ってくるものを紙に書いておくね。着いたら裏口から入って、誰かに声をかけてくれればいいから」

⑅∙健がメモ用紙を引き寄せ、ボールペンで一つずつ箇条書きにしながら説明してくれる。こはるが手元の文字を読むあいだはペンを止めて待ち、こはるが顔を上げると次の項目へ進む。さっきまでフル回転で言い訳を錬成していた頭でも、驚くほどすんなりと内容が入ってきた。∙⑅

こはる「つまり、初日はまず裏口で説明を受けてから売り場へ出る、という手順ですね」

健「そうそう。いきなり一人で接客させたりしないから安心して」

みぃな「わぁ〜、健くん、なんだか先輩みたいで説明がとっても上手ですねぇ♪」

健「えっ? い、いやあ、そうかな! 俺はほら、いつだって相手の立場に立って物事を考えるのが得意っていうか、気配りの男っていうか――」

梓「気配りの男、手元を見なさい。今『上履き』って二回書いたわよ」

健「……っ!? い、いや、これは予備です! 片方どっか行った時用の!」

⑅∙こはるは手元のメモ用紙へ視線を落とした。∙⑅⑅∙『・筆記用具 ・上履き ・上履き』。∙⑅⑅∙本当に二回書いてあった。しかもご丁寧に二回目のほうが字がでかい。さっき売り場で自分をスマートに救出してくれた頼れる先輩が、看板娘に一言褒められた瞬間、四足歩行用の備品リストを作成していた。∙⑅

みぃな「えへへ、じゃあ一足ぶんは私が消しときますね♪」

健「あ、ありがとう、みぃなちゃん……」

⑅∙みぃながボールペンでシャッと二重線を引き、健の動揺は物理的に抹消された。当の健本人は、なぜか二重線を引かれただけの紙を見て幸せそうに頬を緩めている。こはるの高度な演算能力をもってしても、この店の感情の収支計算だけはさっぱり解けなかった。∙⑅*⑅∙書き直されたメモ用紙を丁寧に折りたたみ、こはるは隣の椅子から自分の鞄を引き寄せた。紙をしまい、ファスナーの引き手を、じっ、と引く。∙⑅⑅∙が、途中でピタリと止まった。内側の裏地を思いきり噛んでいる。もう一度引く。びくともしない。∙⑅

みぃな「あっ、大丈夫ですか?」

こはる「……ええ。問題ありません。少し布が干渉しているだけですので」

⑅∙健が片づけの手を止めた。梓もバインダーから目を上げる。店長まで覗き込んだ。四人の視線が自分の手元へ集中した瞬間、こはるの額に今日一番の冷や汗がにじんだ。∙⑅

こはる(落ち着いて私! たかが鞄の開閉ミスで、せっかく築き上げた『知的で完璧な新人』のイメージを崩すわけにはいかない……!)

こはる「……そもそも、このファスナーという機構は、日本では『チャック』とも『ジッパー』とも呼ばれますが」

梓「開け方じゃなくて語源から入るんだ」

こはる「現状を正確に把握するための前提共有です! 元々この機構は一八九三年にアメリカのホイットコム・ジャドソンが靴紐の代用として発明したものが起源ですが、日本において一九二七年に広島県尾道市で『巾着(きんちゃく)』をもじって『チャック印』として発売されたことでチャックという呼称が定着しました! 一方で『ジッパー』はアメリカのB・F・グッドリッチ社がブーツに採用した際、開閉時の『ジップ!』という擬音から名付けた商標であり――」

みぃな「へえぇ〜っ! チャックって巾着から来てたんですね! 言われてみれば似てます♪」

こはる「はい! つまり何が言いたいかと申しますと、日本語の語源が『巾着』である以上、入り口の布がキュッと中央へ寄って噛み合うのは、むしろ巾着としての正しい先祖返りであり、私が焦って挟んだわけでは断じてなく――」

梓「歴史で物理現象をごまかさないで。裏地が悲鳴あげてるわよ」

⑅∙ぐうの音も出ない正論であった。自分の鞄が開かない言い訳をするために、十九世紀のアメリカから広島県尾道市まで世界一周する羽目になるとは、こはる自身も予想外である。∙⑅

健「あはは、ちょっとだけ引き手を戻せる? 俺がこっちの布を押さえておくから」

こはる「……あ、はい。お願いします」

⑅∙健が噛み込んだ裏地の端をそっと指先で引き下げ、こはるが引き手を五ミリほど逆へ戻した。∙⑅⑅∙するっ。∙⑅⑅∙百年分の歴史講義より遥かに速く、一秒で解決した。ぎゅっと握りしめていた引き手から力が抜け、こはるの口から「ふぅ……」と小さな安堵の息が漏れる。∙⑅

こはる「……ありがとうございます。助かりました」

健「うん。このタイプ、帰ろうとして急いで引く時によく噛むんだよね」

⑅∙「開け方を知らなかったのか」とも、「なんで急に尾道市の話をしたのか」とも、彼は言わなかった。こはるは小さく頷き、今度は自分の指で裏地を避けながら、ゆっくりと最後までファスナーを閉じた。余計な理論を足さずに「ありがとう」の一言だけで終われる会話が、こんなにも楽だとは思わなかった。∙⑅

店長「いやぁ、パンの歴史にも鞄の歴史にも詳しいなんて、こはるちゃんは本当に物知りだなぁ!」

こはる「……いえ、一般教養の範囲ですので」

梓「一般教養であの尺なら、専門分野を聞いた日には店が閉まるわね」

⑅∙褒められているのか、退店時間を宣告されているのか判別がつかない。こはるはひとまず、鞄を両手で持って深々と頭を下げた。美しい礼は、あらゆる気まずい空気を強制終了できる万能コマンドである。∙⑅

こはる「それでは、来週の初出勤からよろしくお願いいたします。失礼いたします」

みぃな「はいっ! 来週、楽しみにお待ちしてまーす♪」

⑅∙からん、と鈴を鳴らして外へ出る。∙⑅⑅∙扉が閉まり、通りを三歩ほど進んでから、こはるは「ふうぅぅ……」と肺の中の空気をすべて吐き出した。秋の風は涼しいはずなのに、制服の襟元だけがやけに熱い。アルバイトの面接とは、これほどまでに広範な人文学と自然科学の知識を総動員する総力戦だっただろうか。∙⑅

こはる(……いえ、結果は出しました)

⑅∙こはるは鞄の持ち手を握り直した。多少、ほんの多少だけ質疑応答が長引いた気はするが、自分の博識さと労働への熱意は十二分に伝わったはずだ。鞄の中には、上履きが一足に修正された初日の案内メモもしっかり入っている。誰にも弱みは見せていない。∙⑅

こはる(完璧な面接でした。予定どおりです)

⑅∙こはるは再び背筋をピンと伸ばし、堂々たる足取りで通学路を歩き出した。入店前より喉がカラカラに渇いていることには、気づかないふりをした。∙⑅⑅∙一方、そのころの店内では。∙⑅

みぃな「こはるさん、いろんなことをいっぱい知ってて、すっごくカッコよかったですねぇ♪」

店長「おう! ああいう勉強熱心な子が、うちの店に新しい風を吹かせてくれるんだぁ!」

梓「ええ、そうね。とりあえず初日は、『分からない時に尾道市の話を始めないこと』から教えましょうか」

健「……ですね。あと、二択を出す時はちょっと気をつけます」

⑅∙レジの梓と、トレーを抱えた健が顔を見合わせ、揃って小さく吹き出した。∙⑅

⑅∙本人は完璧な履歴書を一枚だけ提出したつもりで、図らずも「かなり分厚い自分の取扱説明書」までしっかりカウンターへ置いて帰ったのだった。∙⑅

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